原爆投下から77年 なぜ長崎は米軍に狙われたのか
1945年、長崎市に原爆が投下され、8月9日で77年になります。なぜ米軍は長崎を狙ったのでしょう。そして、なぜ8月6日の広島市に続いて、長崎にも原爆を落とす必要があったのでしょう。【西部報道部・中里顕】
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Q:なぜ米軍は長崎に原爆を落としたの?
A:重要な軍事拠点を破壊し、太平洋戦争(第二次世界大戦)を続ける日本を早期に降伏させようと考えたのが一つの理由とされています。長崎は戦艦「武蔵」を建造した造船所や製鋼所、兵器製造工場などが集まる日本軍の重要都市でした。
米国は41年12月に日本が米ハワイの真珠湾を攻撃したことをきっかけに、第二次世界大戦に参戦しました。欧州を侵攻するナチス・ドイツが原爆の開発を進めているとの情報を得て研究を急ぎ、45年7月、ニューメキシコ州の砂漠で史上初の原爆実験に成功しました。原爆の投下目標とする都市は何度も変わりましたが、最終的に、広島市、小倉市(現在の北九州市)、長崎市となりました。広島市には同年8月6日に原爆が投下され、人類史上初めて核兵器が実戦で使用されました。
Q:なぜ小倉市には落とされなかったの?
A:8月9日の第1目標は小倉市でした。しかし、原爆を搭載した米軍爆撃機「B29」が小倉上空に到達すると視界が悪く、投下できなかったのです。視界不良だった理由は前日の空襲による煙のためと言われていますが、小倉に近い製鉄所で当時働いていた人の「煙幕を張った」という証言もあり、原因は諸説あります。B29はその後、長崎に向かい、午前11時2分、高度9600メートルから原爆を投下しました。
Q:長崎は原爆でどんな被害を受けたの?
A:原爆は長崎市松山町の上空約500メートルで爆発し、巨大な火の球が生まれました。街は火の球から放たれた熱線で、鉄が溶ける温度(約1500度)の倍以上に当たる3000~4000度の高熱となり、秒速数百メートルの爆風に襲われました。民家は跡形もなく破壊され、コンクリートで造られた頑丈な建物も崩壊しました。原爆は大量の放射線も放出しました。熱線や爆風の被害を免れて生き残った人も、白血病やがんなど放射線による「原爆症」で次々と命を落としました。人的被害は広島に続いて未曽有の規模となり、長崎市の当時の推定人口約24万人に対し、45年末までに約7万4000人が亡くなりました。
Q:多くの一般市民を殺傷する爆弾を2度も落とす必要があったの?
A:米国は原爆開発のために多くの科学者や技術者を動員し、当時としては巨額の約20億ドルの費用をつぎ込みました。広島では「ウラン」、長崎では「プルトニウム」と、異なる放射性物質を使った原爆が投下されました。それぞれの威力を確かめる狙いがあったのでは、と指摘する人もいます。この他、大戦後に世界の覇権を争うとにらんでいたソ連をけん制するための投下だったという見方もあります。
Q:被爆後の長崎はどのような道のりを歩んだの?
A:戦後の長崎は平和の発信拠点としてのまちづくりが進められました。原爆が爆発した爆心地やその周辺には緑豊かな公園が整備され、55年には長崎県出身の彫刻家、北村西望氏によって「平和祈念像」が造られました。毎年8月9日には像の前で平和祈念式典が開かれ、被爆者ら市民が参列して長崎市長が「平和宣言」を読み上げます。
「東洋一の大聖堂」と言われた爆心地近くの浦上天主堂も原爆で崩壊しましたが、被爆から14年後の59年に再建されました。天主堂では8月9日、平和への祈りをささげるミサが開かれます。他にも、原爆の爆風で柱が失われて1本柱で立つ鳥居や、焼け残った学校の校舎などが「被爆遺構」として残り、原爆資料館では投下までの経過や被爆後の惨状などを展示で学ぶことができます。
Q:平和への思いは伝わっているの?
A:スウェーデンにあるストックホルム国際平和研究所は、今年1月時点で世界に計1万2705発の核弾頭があり、多い順にロシア、米国、中国、フランス、英国、パキスタン、インド、イスラエル、北朝鮮の9カ国が保有していると推計しています。核兵器の廃絶を求める広島、長崎の思いと、世界の現実には大きな隔たりがあります。また、今年2月にはロシアのプーチン大統領がウクライナへの侵攻時に核兵器の使用を示唆し、世界に緊張が走りました。核兵器の使用がもたらす悲惨さを直接知る被爆者が年々減少する中、長崎の声を世界にどう伝えていくのかが課題になっています。