安倍晋三元首相の遺産とは:安全保障政策を振り返る

2022年08月25日

兼原 信克

安倍政権で内閣官房副長官補(2012年-19年)、国家安全保障局次長(14-19年)を務めた筆者が、安倍晋三元首相の安全保障政策面での業績を語る。

2022年7月8日、安倍晋三元総理大臣が凶弾に斃(たお)れた。安倍氏を悼む声は巷に満ちた。葬儀の行われた増上寺や、凶行の現場となった大和西大寺駅前には、多くの人が訪れた。若い人が多かった。よどんだ政治の下で、変わらない、変われない古い日本の殻を破ろうと、一人疾走した指導者だった。その姿は多くの日本人の心を打った。 安倍氏は、日本に何を残そうとしたのか。その遺産について、第二次政権の8年間の業績を外交安全保障政策を中心にまとめてみたい。

「自由で開かれたインド太平洋」構想

訪日したインドのモディ首相(左)と会談前に握手する安倍晋三首相=2018年10月29日、首相官邸(時事)

外交上の業績として、まず取り上げられるべきは、「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)構想である。この構想は、瞬時にしてトランプ米大統領が踏襲した。ハワイの米太平洋軍は、インド太平洋軍に名称を変更した。オーストラリア、英国、フランス、ドイツ、欧州連合(EU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)も次々と同様の戦略概念を打ち出した。 同構想の第一の意義は、21世紀前半の国際政治の戦略的枠組みの変貌を見事に言い当てたことである。米日・中の離間と米日・印の接近である。 現代国際政治の安定は、二つの戦略的三角形が組み合わさって実現されている。一つは、北米新大陸の米国を頂点にして、ユーラシア大陸の西端に北大西洋条約機構(NATO)、東端に日本、韓国、フィリピン、タイ、オーストラリアの同盟国を構える西側の三角形である。海洋大国系の三角形である。この三角形が取り囲むユーラシア大陸の内側には、ロシア、中国、インドの3大国が存在し、独特のダイナミズムをもった大陸国系の三角関係を構築している。 米国は、3大大陸国の関係を常に自らに有利に利用してきた。第二次世界大戦ではナチスドイツを潰すため、ナチスに侵略されたソ連を利用した。冷戦中期にはソ連と対峙するため、中ソ対立に入った中国を利用した。日本も追随した。敵の敵は味方である。米中・日中国交正常化は、デタント(緊張緩和)の時代を実現した。ただし、その副産物として、中国に1958年と62年に侵略されて対中警戒感の強いインドは、非同盟主義でありながらゆっくりとロシアに接近した。インドの兵器がかつて全てロシア製だったのはそのせいである。 今世紀に入り、米中の大国間競争の開始に伴い、インドはゆっくりとロシアから日米同盟側に旋回してきた。安倍氏は2007年8月、第一次政権時に首相としてインドを訪問した際、インド国会で「二つの海の交わり」という演説を行った。谷口智彦慶応大学教授が起草したこの演説は、太平洋地域とインド洋地域を一枚の戦略構図に書き入れ、価値観を共有するインドを西側の重要なパートナーと位置付けていた。 演説を聞いたインド国会は熱狂に包まれた。安倍氏は、この「二つの海の交わり」という構想を発展させて「自由で開かれたインド太平洋構想」を打ち出した。その中核の枠組みとして日米豪印(クアッド)を創設した。クワッドは、今や、インド太平洋地域の最重要な地政学的枠組みの一つとなりつつある。  同構想の第二の意義は、インドとの連携が民主主義国家同士の連携であるという点である。ルーズベルトとスターリンの連携はヒトラーを潰すためであり、ニクソンと毛沢東との連携はソ連に対峙するためのものであった。所詮、毒を以て毒を制すという権力政治的な発想から生まれた便宜的なものであった。これに対し、ガンジーが生み、ネルーが育てた民主国家インドとの連携は、インド太平洋地域の沿岸部から南北アメリカ大陸の太平洋沿岸部へと広がる巨大で緩やかな民主主義連合の萌芽となり得る。 開かれたインド太平洋を支えるクアッドは、米豪日印という全く歴史的、文明的背景の違う大国が、普遍的価値観を共有することで結びついた枠組みである。米国、豪州は内なる人種差別を克服し、自由と民主主義を原理とした政治体制を成熟させた。日本は早期に近代化・民主化し、第二次世界大戦での敗戦後、再び自由と民主主義を奉じて復活した国である。インドは英国の植民地時代のくびきを外し、戦後にガンジーの精神的指導の下で独立を果たした。経済規模では早晩、日本を抜いていく国である。 安倍氏は世界的指導者の一人として、自由主義的国際秩序を支える責任を迷わずに引き受けた。「世界史を振り返れば、20世紀の百年を通じて、人類社会は良い方に向かってきた。人間の尊厳は平等であり、人はみな自由であり、だからこそ話し合ってルールを作る。この価値観は、今は普遍的で地球的規模に広がりつつある」という歴史観を戦後70年談話で披露し、日本国民の強い支持を受け、アジア諸国の共感を呼んだ。 自由で開かれたインド太平洋構想は、地域秩序の権力関係の安定に関する次元にとどまらない。それは普遍的価値に基づく地球的規模の自由主義的国際秩序を作るという大戦略なのである。

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