実現は不可能?岸田首相と池田元首相の「所得倍増計画」の違い
岸田政権は分配をより重視し、令和版「所得倍増計画」を打ち出しましたが、今は見る影もありません。一方、1960年に池田内閣が所得倍増計画を発表した当時、日本の経済は高度成長期にありました。経済評論家の加谷珪一氏が著書『縮小ニッポンの再興戦略』(マガジンハウス新書)で解説します。
高い経済成長で所得が倍増するのは確実だった
実現は不可能?岸田首相と池田元首相の「所得倍増計画」の違い
■所得倍増計画の意外な真実 いくつかの偶然が作用して戦後の高度成長が実現したという視点に立つと、これまで当然視されてきた話も、違った角度で見られるようになります。日本の高度成長を代表するキーワードとなっている所得倍増計画もそのひとつといってよいでしょう。 言うまでもなく所得倍増計画とは、池田勇人元首相が1960年に提唱した長期経済計画のことを指します。 この計画によって日本の高成長が実現したというストーリーは、戦後の日本人にとって絶対的な常識となっており、そうであればこそ、岸田政権は発足時に「令和版所得倍増計画」というキャッチフレーズを打ち出したと考えられます(ちなみに池田勇人元首相は、岸田氏が率いる派閥である宏池会の創始者です)。 しかしながら、現実の所得倍増計画は、私たちが抱くイメージとはずいぶん違っているようです。 同計画では、1961年からの10年間で日本の実質GDPを2倍にする(厳密に言うと、当時はGDPではなくGNP)という目標が掲げられました。この目標はわずか7年で達成しており、多くの国民が豊かさを実感する結果となりました。一般的にGDPが2倍になれば、賃金も2倍になります。ごく短期間で給料が2倍になったわけですから、国民に対するインパクトは相当なものだったでしょう。 では、池田内閣は具体的にどのような施策でこの成長を実現したのでしょうか。実を言うと、その問いに対する明確な答えは存在していません。なぜなら、所得倍増計画というのは、実は後付けの政策に過ぎないからです。 当時の日本経済は自律的な高成長が続いており、10年間で所得が2倍になることは、計画策定時点においてほぼ確実という情勢でした。所得倍増計画の本文を見ても、大半が現状分析にとどまっており、特筆すべき施策が盛り込まれているわけではないのです。 しかも、政府が民間の邪魔をしないよう過度な介入を控え、民間の自発的な経済活動を促進させるといった提言まで行われていました。要するに、所得は勝手に倍増するのだから、政府は余計なことをしなければそれでよし、という話です。所得倍増計画で所得が2倍になったのではなく、所得が2倍になることがほぼ確実だったので、池田氏は堂々と所得倍増計画を表明することができました。 当時の状況をより詳しく見てみましょう。 10年間でGDPを2倍にするためには、年間7%程度の成長が必要となりますが、1959年の実質成長率は11.2%、1960年は12.0%であり、7%という水準を大きく上回っていました。 戦争や金融危機、疫病といった非常事態が発生しない限り、ある国の成長率が突然低下することは通常、ありません。 しかも、リーマンショックの経験からも分かるように、壊滅的な状況と認識されるのは1年程度であり、その後は、従来の成長ペースに戻ることがほとんどです。 所得倍増計画の策定段階ですでに10%超の成長率があったわけですから、経済の専門家であれば、かなりの確率で同じ水準の成長が継続すると予想できたはずです。 実際、1960年代の平均成長率は10.2%でしたから、所得を2倍にするという目標は容易に達成しました(ただし池田氏は成果を見ることなく1965年に病死)もっとも、所得倍増計画が実施された10年間には想定外の出来事も発生しています。それは東京オリンピック(1964年)翌年に発生した40年不況です。 所得倍増計画の策定後、日本経済はオリンピック景気も重なって順調に推移していましたが、設備投資の活発化によって銀行融資が急拡大。貿易収支も赤字に転じたことから、日銀は金融引き締めに転じます。これによって経常収支は改善したものの、株式市場にとっては大打撃となり、株価が暴落したのです。 このあおりを受けて1964年には日本特殊鋼とサンウェーブ工業が、翌年には当時としては最大級の負債を抱えて山陽特殊製鋼が倒産。不況の本丸であった山一證券は日銀特有で何とか破綻を回避するなど経済は大混乱となりました。表を見てもお分かりいただけるように、1964年と1965年の成長率は低下しています。