山口二矢、朝日平吾…安倍元首相銃撃事件を機に振り返る、「暗殺」の日本史
貧困、格差、社会的分断
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日本近代史は、血塗られた「暗殺」を語らずして理解することはできない。 嚆矢となったのが、1878年、新政府の重鎮だった大久保利通が斬殺された「紀尾井坂の変」だ。 【写真】山口二矢、朝日平吾、島田一郎...これが「暗殺」の日本史だ 犯人は、旧加賀藩士の島田一郎(当時30歳)を中心とした6人の不平士族。島田が持参した斬奸状(悪者を斬り殺す趣意を書いた書状)には、「独裁体制を敷く大久保に政治を任せていたら国家の未来はない」といった内容が書かれていた。 ここで、単に日本の将来を憂える「愛国心」に基づいた暗殺と捉えると、歴史を見誤ることになる。なぜなら、犯行の背景には貧困や格差、社会的分断が横たわっているからだ。 足軽の家に生まれた首謀者の島田は、戊辰戦争で功を挙げて出世街道をひた走る新政府の軍人だったが、西郷隆盛に触発されて反政府の戦いに身を投じる。 西南戦争が勃発すると呼応して挙兵しようとするも、人集めがかなわず島田は参戦できずに終わってしまう。死に場所を失った彼を待ち受けていたのは、困窮極まる生活だった。 「社会に対して恨みを抱えていた不平士族にとって、一発逆転の手段は『お国のため』という大義名分の下、新政府の要人を殺す以外になかったのかもしれません」(政治学者の六辻彰二氏)
どん詰まりの人生
明治時代、日本人に芽生えた愛国心は、社会への不満と容易に結びついた。 1921年には安田財閥の祖・安田善次郎が刺殺される。犯人は、当時31歳の朝日平吾だった。刺殺後に自害した朝日の遺書には、天皇を根拠とする平等思想から「天誅」を加えたと綴ってある。 しかし、実は彼もまた、島田と同じように、どん詰まりの人生を送っていた。 家庭内不和で家出した朝日は、中国で一旗揚げようとしたり、会社設立を画策したりするも、失敗に終わってしまう。戦後恐慌による不況で財産も失っていた。 何も上手くいかない。誰も認めてくれない――。そんな不満は「世の中を見返してやりたい」という思いを増幅させ、資本家を暗殺するという凶行へと至った。 この事件の影響もあり、約1ヵ月後には原敬首相が刺殺される。現職の首相が暗殺されるという大事件は、列島を震撼させた。それから日本は暗殺が「連鎖」する時代へと突入していく。