徳川家康が天下統一を果たした4つの要因。人質から将軍へと辛抱強く上りつめた、その半生とは
Pen最新号「戦国武将のすべて」の中から『徳川家康』の記事を抜粋・再編集して掲載する。 【写真】家康の勢力図の変遷 *** 「関ヶ原の戦い」からの印象が強い徳川家康だが、それまでに家康はどのような動きをしていたのか。そこには、ひたすら好機を待ち続けた姿があった。
機が熟すまで忍耐と静観を重ね、歴史の表舞台へ
家康は、三河岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生。幼名は竹千代(たけちよ)。母は刈屋城主・水野忠政(みずのただまさ)の娘。駿河の今川氏の庇護下にあった関係上、幼年期は人質と英才教育の意味を兼ねて駿府で過ごした。元服も、武家の男子として大事な節目の初陣も、今川氏のもとで経験。元服時に今川義元から一字を与えられ、元信(もとのぶ)に。初陣前に今川一門の娘である築山殿(つきやまどの)を正室に迎え、名を元康(もとやす)と改めた。 義元の尾張侵攻戦の序盤で、大高城への兵糧入れを果たして名を馳せ、その後も先鋒を任されるが、桶狭間で義元が討たれたと聞いて岡崎に戻る。義元の嫡男・氏真(うじざね)に仇討ちの意志なしと見るや、永禄4年(1561年)4月には今川氏と決別。永禄6年(1563年)には織田信長と同盟を結び、絆を深めるべく、嫡男の信康(のぶやす)と信長の娘との婚約を成立させた。 名も家康と改め、今川色を完全に払拭するが、同年9月に「三河一向一揆」が勃発。家臣団を二分する宗教戦争である。苦戦を重ねながらも、永禄7年(1564年)2月には一揆を鎮圧。西三河に続いて東三河の平定も成し遂げ、さらに遠江(とおとうみ)への侵攻も開始する。姓を徳川に改め、清和源氏(せいわげんじ)の子孫と称したのは永禄9年(1566年)のことで、遠江の平定が進むに伴い、信長の勧めで居城を引馬城(ひくまじょう)に移し、城の名も浜松城と改める。それまで甲斐武田氏とは、氏真を共通の敵とする点で一致していたが、今川領がみるみる削られ、両者が境を接するようになると対立が生じた。さらに足利義昭から信長打倒の呼びかけがなされ、信長の同盟者である家康も討伐の対象とされたことも重なり、呼びかけに応じた武田信玄と家康の衝突は避けがたいものに。 ---fadeinPager--- 元亀3年(1572年)、「西上作戦」を開始した信玄は家康など眼中にないかのごとく、浜松城を攻めずにそのまま西進。普段は慎重な家康がこの時ばかりは冷静さを失い、背後から武田軍を討とうと出撃するが、それこそ信玄の罠で、家康は返り討ちに合う。信玄の急死によりことなきを得たが、家康はこの敗北を胆に銘じ、上杉謙信と連携し南北呼応することで合意する。一方で、同盟関係にある信長は東国へ派兵する余裕がなかなか生まれず、家康にとってはその効果を享受できずにいた。 天正3年(1575年)5月、とうとうその機会が訪れた。決戦の場は長篠城の西に広がる設した楽原(したらがはら)。「長篠の戦い」である。織田・徳川連合軍は兵の数が上回るだけでなく、鉄砲の練度と銃弾の数でも大きく勝る。戦ってみれば連合軍の圧勝。家康は雪辱を果たす。これで一気に武田が衰退したわけではないが、武田軍に対する恐怖が消えただけでも十分。家中には武田に通じていた者が少なからずいて、それが信長の耳に届いたことから、天正7年(1579年)には嫡男の信康を自刃させ、正室の築山殿を殺害する事態となる。天正9年(1581年)3月、家康は高天神城(たかてんじんじょう)の奪還に成功するが、これは大局の流れを決定づける勝利だった。翌年には甲斐本国への侵攻を開始。武田氏側は寝返りが続出し、あっけなく滅び去る。 信長の招聘で安土へ赴き、その足で京都や堺も訪れるが、そこへ「本能寺の変」の知らせが届く。家康は三河へ逃げ戻り、しばらくはそこから動かず、事態の成り行きを静観。後継者争いの最終局面で介入し、「小牧・長久手の戦い」で秀吉に対し、自分の実力を見せつけた。秀吉には家康を討つ考えはなく、北条氏を滅ぼした後、家康は三河など5カ国を没収された代わりに、関東8カ国を与えられた。秀吉存命中の家康はまさに「忍」の一字。朝鮮出兵は言葉巧みに派兵を回避し、肥前名護屋城で後方支援をしただけ。 病の床に就いた秀吉から誓紙を求められれば何枚でも署名血判を繰り返し、秀吉が永眠するのを待って、豊臣恩顧の大名の切り崩しや外様大名の懐柔工作を推し進めた。「関ヶ原の戦い」に勝利して征夷大将軍に就任、江戸幕府を開くと、嫡男の秀忠(ひでただ)に将軍職を継承させることで豊臣家への政権返還がないことを世に示す。「大坂の陣」をもって豊臣家を滅亡させ、戦国の世を終わらせた。