歴史を振り返ることも必要か。高インフレが米国を襲った1970~80年代の状況
FRBは根強いインフレ圧力を前に景気を犠牲にしてでも金融引き締めを続ける覚悟だ。前回、高インフレが米国を襲った1970~80年代の経験も踏まえると「不況下のドル高」になる可能性がある(8日付日本経済新聞)。
この記事にある高インフレが米国を襲った1970~80年代の経験とはいかなるものであったのか。金融市場の変遷とともに辿ってみたい。
ニクソン・ショック
1969年1月に成立した米国のニクソン政権は大幅な財政拡大政策を取り、連邦予算は1969年の30億ドルの黒字から、1971年には230億ドルの赤字を出すまでに膨張した。
1971年春には猛烈な投機により外国中央銀行にはドルが溢れ、米国の金準備は大量に外国に流出した。
その年の8月15日、リチャード・ニクソン大統領は、テレビとラジオで全米に向けて声明を発表した。主な要点は、税と歳出削減、雇用促進策、価格政策の発動、金ドル交換停止、10%の輸入課徴金の導入などであった。
この中で特に注目されたのが「金とドルの交換停止」。これによって第二次大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制が崩壊し、為替市場は新たな展開を迎えた。これにより人類の歴史上、長く続いた金を中心とした貴金属と通貨の関係が完全に切り離され、通貨は通貨間の相対価値が基準になるという現在に続く変動相場制へと移行することになる。このニクソン大統領による声明は世界に大きなショックを与え、ニクソン・ショックやドル・ショックと呼ばれた。
スミソニアン合意
ニクソン・ショックの同年12月に、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた10か国蔵相会議では、ニクソン大統領が発表した米国の新経済政策をうけて、通貨に関するいくつかの措置が合意された。これがスミソニアン合意である。
ドルを切り下げ、為替の変動幅を従来の上下1%から暫定的に2.25%に拡大された。円レートは16.88%切り上げられて308円に変更された。
しかし、スミソニアン体制でも為替相場は安定せず、ドル売りは止まらず、さらに1973年には第4次中東戦争の勃発による原油価格の急騰によるいわゆるオイル・ショックによるインフレ圧力も追い討ちをかける格好となった。
米国や英国の国際収支は改善されず、英国をはじめ各国がスミソニアン体制を放棄したことにより、1973年に主要先進国は変動相場制に移行し、スミソニアン体制はわずか2年で崩壊となった。
キングストン合意
1975年にジャマイカのキングストンでIMFの暫定委員会が開かれ、通貨制度の改革が協議された。1976年に、変動相場制の正式承認を含むIMF協定の第2次改正が決定しました。これにより加盟国はどのような為替制度をとることも自由となり、正式に変動相場制への移行することになった。これにより金の廃貨も正式に決まった。この制度は1978年4月1日に発効となり、これをキングストン合意と呼ぶ。
デリバティブ取引の開始
現在のかたちでのデリバティブ、つまり金融派生商品が登場したのは、米国のシカゴにおいてである。米国では19世紀に中西部の開拓が進み、穀物の取引が盛んになる。ミシガン湖畔で海上交通上の主要地であったシカゴに穀物は集められ、この穀の季節的な価格変動リスクを避けるために、収穫前に値段を決め収穫時に現物を受け渡すといった取引が盛んになる。
1848年に世界初の先物取引所といわれるシカゴ商品取引所(CBT)が設立され、ここではまず穀物に対する先物取引が行われ始まった。この先物取引のモデルとされたのが、大坂堂島の米の先物取引であった。
ニクソン・ショックにより、通貨は固定相場から変動相場へと移り、価格変動リスクに晒されることとなり、このリスクを回避するため、通貨を先物市場へ上場することが検討され、1972年5月にシカゴにあるもうひとつの大きな取引所のシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)で、通貨先物取引が開始された。
1975年にはシカゴ商品取引所(CBT)で初めて政府機関債の先物と金先物が上場され、1977年にアメリカ長期国債先物の取引が開始された。
1976年にはCMEでユーロ・ドル金利先物が上場され、1982年に株価指数先物、さらにCBTでは派生商品の派生商品ともいえる株価指数先物オプションが導入された。こうして現在行われているデリバティブ取引の多くがスタートした。
証券化商品とスワップ取引
1980年代初めには米国の投資銀行のソロモン・ブラザーズのシドニー・ホーマーが債券の元本部分と利息部分を分けて2つの証券を作り出すという、ストリップと呼ばれる手法を編み出した。
これがきっかけとなり、流動性の低い金融資産を流動性の高い商品に組み替える証券化の動きが盛んとなる。特に住宅ローンという巨大な市場において「証券化」が進みモーゲージ証券が組成されるようになった。
1981年にはソロモン・ブラザーズが、米国企業のIBMと世界銀行による米ドルとスイスフランの通貨スワップをアレンジし、これをきっかけにスワップ取引が急速に成長した。
電子取引の開始
1969年に設立された通信社のテレレートは端末を使って米国の電子取引を開始した。また、1970年には米国の店頭株市場であるナスダックに自動注文執行システムが導入され、1973年にはロイターがモニター・マネー・レート・サービスを開始し、外国為替の24時間電子取引市場が生まれた。また1981年にはブルーム・バーグが設立されるなど、金融市場では急速にコンピューター化が進み取引が効率化されるとともに、世界のニュースや市場の動向が瞬時に伝わるようになった。
ボルカー・ショック
1979年8月にFRB議長に就任したポール・ボルカーは、同年秋に臨時のFOMCを開催し、金融政策の操作目標を従来のFFレートから銀行準備に変更し、マネー・サプライの安定化を目標とした。第二次オイル・ショックによるインフレの強まりの対処するため、インフレ抑制を最優先課題とした貨幣供給量を引き締める高金利政策を実施した。
このマネー・サプライ政策はマネーをコントロールするためにFFレートの大幅な変動を容認したことにより、FFレートは結果的に一時22%にまで上昇した。急激な金融引き締めによる金利の高騰により中小金融機関の多くが倒産に追い込まれ、失業率が大幅に悪化したが、高いインフレ率は収まりを見せ、一時リセッションに陥った景気もその後、急回復したのである。
レーガノミックス
1981年1月に米国大統領に就任したロナルド・レーガンは歳出カットと減税の組み合わせにより小さな政府を目指し、併せて規制緩和を推進することで民間活力を再び引き出そうとしました。これがレーガノミックスと呼ばれた政策である。
大幅減税に関しては予定通り実施したものの、歳出削減については、レーガン大統領自身が「強いアメリカ」を標榜して国防予算を膨らませてしまったことから、むしろ財政赤字は減るどころか急増してしまった
金融政策はインフレ抑制のために引き締めを続けたことで、財政拡大と金融引き締めのポリシーミックスにより、必然的に高金利とドル高が生み出されることになった。
このように1980年代の前半は財政赤字に伴う米国債の大量発行や、発行された米国債の金利が年利10%台と高くなっていたことなどを受けて、日本をはじめ巨額の投資資金が米国に流入した。
特に日本では1980年12月に外為法が改正されたことで対外投資が原則自由になり、対米投資が貿易黒字を上回るペースで拡大したことでドル買い需要が強まりドル高を招く結果となった。