米国頼みはもはや通じない、国際政治の現実と乖離してきた日本の安全保障
(藤谷 昌敏:日本戦略研究フォーラム政策提言委員・経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員・元公安調査庁金沢公安調査事務所長) 内閣が改造され、第2次岸田内閣が発足した。今回の内閣においても、引き続き問題とされるのは、何と言っても安全保障問題だ。 これまでの日本は、戦後の吉田内閣が打ち出した「小さな政府」「小さな軍隊」「大きな経済」の路線を約80年にわたって継承してきた。その路線の根底が「日米安全保障条約」であり、「日本国憲法第9条」だ。そのため、日本は全国に米軍基地を置くことを甘受してきたのであり、国内的には60年安保、70年安保という大きな社会混乱も味わった。 反面、日本のGNP(当時の指標:国民総生産)は、1966年にフランス、1967年にイギリスを抜き、1968年にはついにアメリカに次ぐ第2位となった。その後、経済グローバル化の進展から、GNPに代わってGDP(国内総生産)が国際指標として使用され、2010年には日本のGDPは中国に抜かれて世界第3位になったが、この間、日本のGDPは42年間世界第2位の地位にあったことになる。敗戦で国土が荒廃し、しかも資源のない国でありながら、これほどの経済発展をした国は、近代史上、日本以外には例を見ない。 だが、どんな成功を体験した国でも、引き換えに必ず失ったものがあるはずだ。日本が経済発展と引き換えに失ったもののうちの1つが、本稿で取り上げる「安全保障」だ。中国が著しい台頭を見せている今、安全保障の問題が改めて問い直されている。
■ 既に東アジアの安全保障体制は崩壊した そもそも東アジアの安全保障は、国際連盟(1920~1946年)時代に常任理事国であった日本が、その安定と維持を世界各国から期待されていた。その前提は、中国の国力・軍事力が弱体で、かつ日本の軍事力が地域最強であることだった。 当時、中国の分割を狙っていた欧米にとっては、日本は利用価値の高い番犬だった。だが、日清、日露という2つの大戦争を経験した日本は、自信を大きく深め、軍事力を一層増強するとともに、大陸進出の野心を露わにしていった。中国の分割において後発組だった米国にとって、日本の台頭は大きな障害となっていた。こうした中国をめぐる争いが日米開戦の原因となったのである。 1945年に日本が敗戦した際、アジアと太平洋には大きな空白が生じたが、それを米国とソ連のどちらがその空白を埋めるかで争ったことから、東アジアの各地域で紛争が頻発した。まだ成立したばかりの中華人民共和国は、ソ連に依存して発展しようとしていたが、その後、ソ中が政治路線の違いから離反すると、冷戦中の米国はソ連に対抗する意味から中国に大きく近づくようになった。 それは1972年のニクソン大統領の訪中によって米国が大きく外交方針を転換させたことでも明らかである。当時の国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、中国・周恩来首相との秘密会談において、「日本を米中の敵だと認識して、日本が二度と立ち上がれないように抑えておく」ことを両国共通の利益と定めた。その際、キッシンジャーは周恩来に対し、「日本は、経済大国である以上、政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろう」との見方を示し、在日米軍の駐留は、日本の「軍国主義」を抑えるために必要な存在であり、もし日米の同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動をとり始めるだろうとの「瓶の蓋」論を展開した。 こうした米中の接近は、両国の貿易や人的交流を大幅に促進し、外資の導入、技術流出を招いて、その後の中国の急激な発展の要因となった。 1989年、米ソによる冷戦体制が崩壊したものの、今度は中国の経済的・軍事的台頭によって、米中対立という新冷戦体制が生まれた。米国は、自ら中国という強力なライバルを育て、今度はその脅威に脅えなければならなくなった。